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命を賭すべきとき

 

最近、自分の投資に対する甘さ、至らなさの自覚に辟易としていた。

来週、つまり明日月曜日からは甘さを1ナノグラムの質量も許さない投資スタイルを透徹することにした。

この土日は、自分の投資に対する姿勢はもちろんだが、そんな誰でも真摯に立ち向かうことのできるディメンジョンではなくて、

究極的に自分の命を賭して投資をすることにした。

私は過去に3度死んでいる。

幼児のとき、泉熱から併発した急性腎不全で1か月入院した。幼児用の二人部屋入院していた。隣の子は死んだが、私は生きのびた。

中学生のとき、失恋で自殺を図ったが、偶然通りかかった通行人に発見され阻止された。

大人になってからも通り魔に襲われて重体になり、頭骸骨内に膿がたまり、再三の手術で死にかけたが、2か月後、生き延びた。

また、不治といわれる遅発性ジスキネジアという神経系疾患になったが、3年後にほとんど治った。

これは今でも症状が止まってはいないのだが。だがこの疾患はイコール死ではない。

とにかく、神様は私を死なせてくれない。

(正確には、わたしは無神論者なので神様とは称するべきではない)

因果なのか運なのかわからないが、窮地に立たされた時に誰かが何者かがが手を差し伸べて生かしてくれている。

なぜだ?

だが、それはそれで良い。

死んだと思えば、何でも完遂できるはずだし、駄目なら死あるのみで良いではないか?

何も怖いことはないはずだ。

なのに、この最近の甘さは何だ!

この体たらくは何だ!

生きている価値はあるのか?

微塵たりとてあるはずもない!

本当に自分の思考、行動の甘さに反吐が出る。

もう我慢の限界だし、我慢することなどまるで必要がない。

だから、明日からは死ぬ気で行動する。

よく死ぬ気でやれ!と言われるが、私が言う「死ぬ気」とは、そんなよく言いふらされた表層的なテクストで表現されるものではない。

(薄っぺらい言葉は鳥肌が立つほど嫌悪する)

失敗してカネが尽きたら、野に朽ちる決意だ。

堂々と野に朽ちれば良いではないか?

この美しい大自然に朽ちて、何がいけないのだ?

1336年、湊川の戦いで死した楠木正成の御心中。

1943年、海軍甲事件で死した山本五十六の御心中。

今の私の心中は彼らと同じだ。

くだらないと思う人はくだらないと思えば良い。

馬鹿だと笑いたいなら、笑えば良い。

私は覚悟を決めた。

これはもう誰にも止めることできない。

「勝って」人間社会で優位に生き延びるか、または、「負けて」死して地球の自然に帰るか?

リッチ・オア・ダイ(Rich or Die)という言葉で解されても良い。

貧しく生きるよりは、

優位に生きる道を進むか、または、死する道を進むかの二択。

奴隷として生きるよりは、そのほうが1兆倍マシだ。

今こそ、乾坤一擲の勝負をするときなのだ。

私はすでに3回死んだ。

だが、なぜか生きている。

なぜ死なせてくれない?

そこには必然の意味があるはずだ。

過去の3度は、なぜか生き延びた。

今回はどうなるか?

追記
久しぶりに短歌を詠みました。

わがみちの
おいぶみえらむ
ゆくさきに
あるはまことの
だいじんならむ
平成二十九年皐月拾五日

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